おそらく誰もが一度位は耳にしたことのある文部省唱歌「村祭」。
村ノ鎮守ノ神様ノ
今日ハメデタイ祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝カラ聞コエル笛太鼓この曲に、明治以後の日本の音楽に巣食う、癒し難い病状が現れている、というと大仰に聞こえるだろうか。
* * *とある村の祭、朝から聞こえる笛と太鼓の響き。
典型的な、日本の田舎の祭日の音風景、をこの詞は歌っている。
しかし、その肝心の笛太鼓の擬音語、
ドンドンヒャララ ドンヒャララ・・・ここに当て嵌められた音型、どこをどう聴いても、村の祭の笛太鼓どころか、軍楽か何かの喇叭のファンファーレではないか・・・!
* * *これはおそらく無意識に、限りない善意に基づいて作られたものであろう。もしそうではなく意図的なものならば、かなり悪趣味なこじつけか、身の毛もよだつ洗脳か、ということになってしまう。
いずれにせよ、(少なくとも私にとって)この曲は、西洋・日本双方への、音楽とその背後の文化に対する、限りない侮辱にすら聴こえる。
しかし何より驚くのは、この歌が明治以後多くの人々によって、ほとんど何の疑問も違和感も差し挟まれる事なく、愛唱されて来た、という事実である。
* * *勿論、明治には明治なりの、近代化を急がねばならなかった理由もあったに違いない。富国強兵喧しいそんな過渡期には、祭り囃子を文明開化風の軍楽調の三和音に当て嵌める事すら、何がしかの必然であったのかも知れない。
その明治時代の先人達の恩恵に、私もまた与っている一人である事を否定する気は毛頭ない。
或はこうした現象を、例えば融通無礙なる日本人の受容性の素晴らしさに帰する事も、それはそれで容易い。
しかし、百歩譲って善し悪しを別にしたとしても、日本における西洋音楽の移入と、従来あった音の文化との間に異様なまでの断絶があること、そしてその断絶が、
創造的葛藤の源泉となる前に、様々な音楽の様式とそれを支える美意識、更にはその下の文化的土壌に対する、無頓着と無関心の温床となって来た、ということもまた確かだ。
明治の音楽教育は、ある意味で、日本人の耳を塞ぐために、あったのだろうか。
* * *これが、過渡期の些細な誤ちであったのか、更にはただ音楽だけの問題であるのか・・・等と考え出すと、今日ですら様々に思い当たること(例えば
南セントレア市騒動はじめ※)もあろうが、そんな論評より何より、この種の違和感を共有出来る人々が、実は少なくないことを、密かに願っている。
©HIRANO Ichiro 2006
※2016年追記:今日ならば、偽善と欺瞞に満ちた商業主義と恥を知らない冷笑家の鬼子「ヒロシマ交響曲」事件とその後の展開もまた同根。