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岩手県胆沢城趾のほど近く、鎮守府八幡宮に伝わる特殊神事"加勢蘇民祭(かせそみんさい)"。
足掛け七年(2008-2014)に亘る八幡巡りの最後の最後、北の涯にて到達した、素晴らしすぎる出会いと結末。 時は延暦20年(801年)、初代征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東北の蝦夷を平定するべく、九州・宇佐より勧請し、戦勝祈願と国家鎮護の為、胆沢(ゐさわ)の城の鬼門に八幡神を祀った、それが鎮守府八幡の始まり。延暦20年(801年)、つまり鎌倉・鶴岡八幡宮は言うに及ばず、京都・石清水八幡宮が現れるよりも、ずっとずっと昔のこと。 八幡神はこの時、南は隼人(はやと)北は蝦夷(ゑみし)と、まつろわぬ者ども皆を力にて平定する、恐るべき軍神であった。それが如何なる曲折を経て、民の豊穣を言祝ぐ福の神へと転じたか、その縁起物語こそが八幡大縁起の本分。 八幡大縁起にて歌われる主な詞は、古文書に残る失われた歌"志多羅歌(しだらうた)"。 "志多羅"とは、歌と踊の律動に合わせて、手を打ち足を踏み楽器を鳴らすこと。 この加勢蘇民祭は、その歌と"志多羅"の本質を、鮮やかに知らしめてくれた。 ・・・というわけで、目下最後の八幡探訪記。 去る2014年2月7日。 先だって記したところの、荒々しくもオドロオドロしい黒石寺蘇民祭に夜を明かしたその足で、鎮守府八幡宮へ。こちらの蘇民祭は、打って変わって、清々しい朝の浄らな記憶。 ![]() ![]() ![]() 氷雪踏みしめ静かな境内に入っていくと、三々五々と集う氏子の方々が、穏やかに余所者を案内して下さる。 種々の神事が恙なく終わり、なぜか皆がそわそわし始めると、いきなり始まった。 ![]() 神歌 八幡の斎垣の内に弓張りて 向かふ矢先に悪魔来たらず 八幡の斎垣の内の八重桜 花が散るとも氏子もらさず 宮司が厳かに力強く、神歌(かみうた)を唱え上げるや否や、全ての氏子が間髪入れず 肚の底から湧き上がる、歓呼の叫びを上げる。鳴り渡る法螺貝や打ち物に負けじと、手を打ち、足を踏み鳴らす。 まるであらゆる苦難と不安と絶望を吹き飛ばせと、魂を解き放つような民の声。生命の爆発。見れば歓呼する皆の顔には、わっと自然に笑みが溢れる。 ![]() 声を上げ、手を打ち、足を踏み鳴らす・・・ そうだ、これこそ、志多羅(しだら)そのもの! 志多羅歌(しだらうた) 一、月は笠着る 八幡種蒔く いざ我らは荒田開かむ 二、志多良打てと 神は宣りたまふ 打つ我等が命 千歳しだらめ 三、早河は酒盛らば 其酒富むる始めぞ 四、志多良打てば 牛はわききぬ 鞍打ち敷け佐米負はせむ [反歌] 一、朝より蔭は蔭れど雨やは降る 佐米こそ降れ 二、富はゆすみきぬ 富は鏁懸けゆすみきぬ 宅儲けよ𤇆り儲けよ さて我等は千年栄ヘて 平将門・源純友の乱平定直後の天慶8(945)年7月末、八幡神の一異相・志多羅神(しだらがみ)を載せた数基の神輿が、無数の群衆によって石清水八幡宮に担ぎ込まれた・・・その群衆が歌ったという童謡(わざうた)、それがこの"志多羅歌(しだらうた)"。 八幡縁起、八幡大縁起は、その失われた曲節の空想的復元でもある。 蝦夷討伐、隼人平定、平将門の乱の鎮圧、打ち続く血腥い殺戮の修羅場。戦に明け暮れる日々の不毛と理不尽を堪えに堪えて生き延びた民の心、それがついに欠壊すると、絶望の底から沸き上がるように、為政者にすら統御出来ない、歌と踊の爆発が起こる。 ところで、志多羅歌に表明された、民の願いとは何か。 天に恵まれ、健やかに働いて、大いなる実りを手にし、旨い酒を呑んでは歌い踊り、愛する人や人々と末永く生きたい。恐ろしき軍神ではなく、一緒に種を蒔いて下さる、心優しき福の神と共に! 志多羅の歌・踊が時を経て田遊びと融け合い、境外(けがい)の神は里に納まって民の豊饒を約する福神となり、いわゆる日本の古き良き原風景たる鎮守の森(杜)とその村祭が生まれた。神は壮絶な遍歴を肚に籠めて、"村の鎮守の神様"に。 こうして八幡神は、"私たちの神"と成った、のだ。 これは、民による神の簒奪(さんだつ)か? それとも、神による民の宣撫(せんぶ)か? 否、そのどちらか、なのではない。 祭礼(そして芸術)は、言葉が宿命づけられた一義性の罠をやすやすと越え、謎めいた所作・音声に現世への逆説を籠めつつ、善悪のはるか向こう側から、忘れられた無数の存在を黙って指し示し続ける。 足掛け七年に亘る八幡巡りの最後、北の涯にて到達した、素晴らしき結末。 ここに記した由無し事、記さなかった由無し事、全て八幡大縁起に籠めました。 あとは音楽が語ります。 ・・・というわけで、目下最後の八幡探訪記、おしまい! こちらが迷宮の入り口です↓ 八幡巡礼 〜志多羅社跡〜 未読の方、心してお入りあれ。 関連記事:ジャッソウ、ジョヤッサ! ▲
by uramarebito
| 2016-01-29 00:18
| 探訪
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先だってよりお知らせしております拙作
八幡大縁起 HACHIMAN-DAI-ENGI 〜四人の独唱、混声合唱とオーケストラによる民俗誌〜 -Ethnography by 4 Vocal-Soloists, Mixed-Chorus and Orchestra- (2015) の初演に際して特設される、 への一般参加の募集、お蔭様で凡その目標人数に到達した模様。 従って予定通り、本日いっぱいを持って応募が締切となる見込みです。 ご参加を検討しつつも躊躇されている方、今ならぎりぎり間に合います。 どうぞ悔いなきご決断を! 〽月は笠着る 八幡種播く いざ我らは荒田開かむ 志多良打てと 神は宣たまふ 打つ我等か命 千歳したらめ 平将門・源純友の乱平定直後の天慶8(945)年7月末、八幡神の一異相・志多羅神(しだらがみ)を載せた数基の神輿が、熱狂する無数の民衆によって石清水八幡宮に担ぎ込まれた…これはその時歌われた童謡(わざうた)の冒頭です。 新作「八幡大縁起」で歌われる最重要テキストは、この謎めいた童謡(わざうた)・志多羅歌六首。 古文書に記されたこの歌は、いにしえの日本の民の声が実に生き生きと千年の時を越えて伝えられた稀有な例。 そしてそれが歌われた志多羅神入京の出来事は、幕末のムーヴメント「ええじゃないか」にも擬えられつつ、日本史の裏側に隠された吾が列島の民衆の生きた歴史を研究する人々の間で、長く注目されてきた出来事です。 古代から中世への転換期を象徴付けるこの一件を境として、出処不明の志多羅の歌/踊は村の歳時記を彩る田遊びと解け合って定着し、荒ぶり祟る恐ろしい存在であった"境外(ケガイ)の神"は人里の真ん中に納まって民衆と共にある"福神"となり、いわゆる日本の"古き良き原風景"たる鎮守の森(杜)とその村祭が形成されていった、とも。 時に権力者によって、まつろわぬ厄介な先住民や蒙昧なる民衆を支配する恰好の道具ともされたかに見える八幡神。 しかしそれは、抑圧された民衆の裡に蟠るエネルギーが爆発的熱狂として他ならぬ"こえ"によって表明された瞬間から、権力者の思惑をはるかに越え、愛憎に満ちたしかしかけがえのない民衆自身の似姿と変じて、私たちの神と成ったのかも知れません。 新作「八幡大縁起」は、お仕着せの伝統主義や研究発表の類いではない、今に生きる私たちの声そのものを通して真に深く風土と主体的に繋がるための、極めてアクチュアルな、いわばもうひとつの"祭"です。 いにしえと今を結ぶ、私たちの風土が産んだ新たなる生命讃歌、ぜひ一緒に声を上げましょう! =練習日程、応募方法などの詳細はコチラ= ![]() =参加申込書はコチラ= ![]() =PDF版はコチラから= 募集チラシ&申込書.pdf =その他の情報はコチラへ= * * * [初演日時] 2016年1月31日 [初演場所] 八幡市文化センター大ホール (京都府八幡市) [演奏者] 指揮:藏野雅彦 ソプラノ:吉川真澄 アルト:橋爪万里子 テノール:大槻孝志 バス:片桐直樹 管弦楽:八幡市民オーケストラ 混声合唱:やわた市民音楽祭「八幡大縁起」合唱団 + + + 副指揮:髙谷光信 合唱指導:小玉洋子 津幡泰子 田末勝志 青木耕平 練習ピアノ:小林千恵(主) 稲葉由己子(副) ▲
by uramarebito
| 2015-07-20 12:40
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●「八幡縁起」初演のお知らせ
八幡種蒔く いざ我らは荒田開かむ 志多良打てと 神は宣たまふ 打つ我等か命 千歳したらめ ![]() 平将門・源純友の乱平定直後の天慶8(945)年7月末、 八幡神の一異相・志多羅神(シダラガミ)を載せた数基の神輿が、 無数の民衆によって石清水八幡宮に担ぎ込まれた・・・ これはその時に歌われた童謡(ワザウタ)の冒頭である。 古代から中世への転換期を象徴付けるこの一件、 志多羅の舞踏が民俗芸能に転じて田遊びと融け合い、 祟りなす荒ぶる神でもあった"境外(ケガイ)の神"が、 ようやく里に納まって民衆と共にある福神となり、 いわゆる日本の"古き良き原風景"たる鎮守の森(杜)と、 その村祭を形成していった、 ともいわれる。 謎めいた志多羅の童謡には、壮絶な遍歴を肚に籠め、 竟には民の豊饒を約束する"村の鎮守の神様"へと今まさに成らんとする、 八幡神の"最後の変身"の在りようが、ほの見える。 こうして八幡神は、"私たちの神"と成った、のだ。 と言う訳で・・・ 志多羅の歌に導かれ、 あれよあれよと繋がった、 八幡神の来歴を巡る旅。 神楽歌、舞(雅)楽、田楽、傀儡子、陀羅尼、螺貝、祭囃子・・・ 八幡神の足跡を辿る事は、同時に、いわば日本芸能史の沿革を訪ねる事、でもあった。 はなはだ断片的ながら、 ここに記したヨシナシ事は、 更なる空想と幻視を経て、 思いもよらない姿形に変貌しつつ、 1月24日、皆様の耳に届けられる予定。 ↑八幡巡礼 〜志多羅社跡〜 ↓八幡巡礼 〜石清水の、細男舞〜 ©HIRANO Ichiro 2009 ▲
by uramarebito
| 2009-12-31 07:23
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●「八幡縁起」初演のお知らせ
石清水八幡宮の麓、頓宮の隣に鎮座するのは、摂社・高良神社。 ![]() 神社の創建は石清水への八幡遷座の、僅か1年後の、貞観2(861)年。 宇佐より八幡神を勧請した、同じ行教(ギョウキョウ)法師による創建である。 随筆・徒然草の「仁和寺にある法師」、兼好翁の名箴言 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり でも知られる高良社。 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。 (徒然草第五十二段) その祭神は、高良玉垂命(コウラタマダレノミコト)。 神の故郷は、八幡神と同じく九州、磐井の本拠・福岡県久留米市に在る筑後一宮・高良大社。 高良玉垂命もまた、武内宿禰その人であるとも、住吉三神の底筒男(ソコツツノオ)の垂迹であるとも、月読(ツクヨミ)の系譜に連なる高神(タカガミ)の別名であるとも噂される、謎の神。 境内には曰くありげに、太古より海民に縁深い、神樹・タブノキが。 ![]() そう言えば、男山上の石清水本殿横にも、確か巨大な楠があった。 そもそも、 石清水八幡宮の創建者・行教は紀氏の出であり、 その紀氏の始祖は他ならぬ武内宿禰、 そこで彼が崇敬する高良玉垂命と始祖・武内宿禰とを混淆したのではないか、 とは高良信仰は勿論、古代氏族の系譜に詳しい太田亮氏の説。 一方、 高良社はもともと河原社と呼ばれていて、 それが徐々に転じて、カワラ→カウラ→コウラとなった、 そんなこんなで高良玉垂命は、 実は甲羅(コウラ)のある(!)河童(カッパ)である、 という不思議な説も。 しかしこんな説すら強ち馬鹿にはならないのであって、 なにしろ、 高良神を祀る氏族には安曇(アズミ)氏がおり、 安曇氏の始祖・磯良(イソラ)は潮の干満を司る海の神、 高良玉垂命も潮の干満を司る神なら、 河童もまた水を司る神。 ついでに磯良は「磯童」とも書き、 とある地方の神楽に登場する磯良/磯童の「おカッパ(=禿(カムロ))頭」には、 河童と同じお皿があるとか、ないとか、 なるほど、 三川合流の水運の要衝でもある男山の麓にこの神が鎮座するのは、 少なくとも単なる偶然では有り得まい… と、混み入ったお話はさておき、 ここ高良社の夏祭・高良祭は、盛夏の始まりを告げる、八幡随一の町衆の祭。 ![]() 通称・太鼓祭とも呼ばれるこの祭では、様々な意匠で彩られた太鼓神輿が、大勢の町衆によって担がれ、熱狂的に八幡の街を練り歩く。 ![]() ドンドンドドドン ドンドンドドドン ドンドンドドドン ドンドンドドドン・・・ 簡潔・直裁、であるからこそ、いやが上にも頭蓋に灼き付く、お囃子とキセイが街に谺しはじめると、八幡の町衆は、夏と祭の到来に血が沸き返るのだ、という。 その祭の最高潮は、7月18日の宮入。 ![]() 前日の宵宮より、丸二日間に亘って八幡の街中を練り歩いた町内各所の太鼓神輿が、宵闇迫る男山の麓に次々と集結してくる。 ![]() そして日没後、提灯の朱も鮮やかに、次々と宮入の揉み合いを繰広げ、夏の祭を劇しくも華やかに締めくくるのである。 ![]() この高良祭は、江戸期の天明年間に始まり、文政年間に太鼓神輿が加わって"太鼓祭"として隆盛を果たしたとされるように、その由緒は必ずしも、大変に古い、というものではない。 しかしこの祭に熱狂する人々の心の裡には、あの天慶年間、志多羅神(シダラガミ)を担いで石清水八幡宮に押し寄せた民衆と変わらぬ魂が宿り、今も逞しく息づいている、ように感じられる。 彼方より来訪する神を血肉化し、いつしか地主神と融け合わせて、その風土に根付かせていくのは、いつの時代でも、権威ある由緒などではなく、そこに営む人々とその祭なのである。 ![]() そんな時空を超えた民の祭の、熱狂の渦の中にある時、 「伝統」とは予め "与えられた" ものではない。 常にふたたび "選び取る" ものである。 といった誰かの言葉が、ふと脳裏を過った。 ![]() ↑八幡巡礼 〜石清水祭〜 ↓八幡巡礼 〜百體社・凶首塚・化粧井戸〜 ©HIRANO Ichiro 2009 ▲
by uramarebito
| 2009-12-12 01:19
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●「八幡縁起」初演のお知らせ
八幡種蒔く いざ我らは荒田開かむ 平将門・源純友の乱平定直後の天慶8(945)年7月末、八幡神の一異相・志多羅神(シダラガミ)を載せた数基の神輿が、無数の民衆によって石清水八幡宮に担ぎ込まれた・・・ これはその時に歌われた童謡(ワザウタ)の冒頭である。 志多羅(シダラ)とは、手を打ち、足を踏み鳴らし、鼓を叩き、鉦を響かせ、簓(ササラ)を擦り、囃し歌い舞い踊ること。 遥か西国に発したとされる神輿の行列が、日々道行くに連れ数を増し、対岸の山崎郷辺りでは老若男女数千万(!?)にまで膨れ上がって、熱狂的に歌い踊りながら、石清水八幡宮へと一斉に雪崩込んだ。 放生会の準備に勤しんでいた八幡宮の側でも、これは創建以来の大騒動、何としても穏便に鎮めなければ・・・ということであったに違いない。 かくてこの志多羅神は、村々の豊饒を約束する福神(フクノカミ)としていわば"公認"され、石清水八幡宮に鎮座することになった。 現在水分社(ミクマリシャ)が鎮座する、石清水八幡宮東門の傍らに、かつて志多羅社という摂社があった、と謂う。 ![]() ところでそもそも、 時の平安貴族達を恐怖のどん底に陥れた希代の叛逆児、 天神・道真の生まれ変わりにして坂東の荒ぶる武者平将門が、 他ならぬ八幡大菩薩の"託宣"に因って“新皇”を称しながら、 朝廷の"祈祷"を受けたその同じ八幡神の"霊験"によって調伏された ということは、意外に忘れられがちである。 ・・・時ニ一昌伎(カムナギ)アリ、云ヘラク、「八幡大菩薩ノ使ヒ」トクチバシル。「朕ガ位ヲ蔭子(オンシ)平将門ニ授ケ奉ル。其ノ位記ハ、左大臣正二位菅原朝臣ノ霊魂表スラク。右八幡大菩薩、八万ノ軍ヲ起シ朕ガ位ヲ授ケ奉ラム。今須(スベカラ)ク卅ニ相ノ音楽ヲ以テ、早ク之ヲ迎ヘ奉ルベシ」ト・・・(東洋文庫『将門記』より/梶原正昭訳注) ことほど左様に、八幡を巡る伝承は、至るところ、謎めいた両義性に満ち満ちている。 その謎の由縁は、所詮、八幡神の来歴そのものの中にあるのではないか・・・ という訳で、私なりに行った、謎の神“八幡”の足跡を辿る旅。 はなはだ断片的ながら、その旅の軌跡を、徒然なるままに。 ↑八幡巡礼 〜大元神社〜 ©HIRANO Ichiro 2009 ▲
by uramarebito
| 2009-11-12 22:50
| 探訪
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